天空からの水が注ぐ日本の中心ともいえる地
飛鳥時代、修験道の開祖・役行者が、大峯山の開山に先立ち、その山脈をなす弥山の鎮守として祀ったことに始まるとされるのが、天河大辨財天社(天河神社)です。
その本宮は、奈良県吉野郡天川村の山深い里にたたずみ、ほとりには吉野と熊野を結ぶ熊野川が清流をたたえています。上流域の天川村と五条市内では高天原にゆえんする「天ノ川」と呼ばれ、中流域の十津川村では「十津川」、和歌山県に入ると「熊野川」と名を変え、熊野三山の本宮、旧社地の大斎原、新宮を通り太平洋に向かいます。
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社からなる熊野三山は、全国3000余りの熊野神社の総本宮であり、吉野、高野とともに大和三大霊場とされる聖地です。古来、修験道の修行の地として、修験者が山々を巡礼してきました。そして三大霊場の中心にある大峯山を目指す修験者たちの最大の行き場が、天河大辨財天社であったといいます。
天河大辨財天社は、いわば熊野三山の奥宮にもあたる幽玄の里にあります。天ノ川のほとりにあり、天空からの水がさらさらと注ぐ場所。地名は坪ノ内(坪内)といいます。
坪とは急所を示し、壺とも表記されます。ですから坪ノ内という地名は、中心、へそ、胞衣(※)などにつながります。近畿全体、あるいは日本全体の中心ともいえる聖地であることを示すのです。
※胞衣とは 胎児を包んだ膜や胎盤などのこと。
細野晴臣氏が「精神世界の六本木」と呼んだ
私が天河大辨財天社に初めて訪れた際、目的は、神社や坪ノ内でも、市杵島姫命(辨財天)でもありませんでした。ある雑誌に掲載されていた「審神(※)」のお話を、同社の柿坂神酒之祐宮司にお伺いしたかったのです。
※さにわ。神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝えること、または審神者と書いて神意を伝える媒介者のこと
神道では、神様に呼ばれて参拝に行くといいますが、天河大辨財天社は1日に数本のバスに1時間揺られて着く場所にあります。そこにバスもない時間に、まさに呼ばれるように駆けつけたのです。時は1984年(昭和59年)4月4日のことでした。
そのころは、一時不遇だった天河大辨財天社が、多くの人の注目を集めていった時期にあたります。明治期の廃仏毀釈、修験道禁止令で大きな打撃を受けた天河大辨財天社は、一時は荒廃を感じさせていたといいます。昭和30年代になると天河の力を見抜いた霊能者たちによって再興していきますが、さまざまな霊言が飛び交う混沌ももたらされました。
辨財天といえば、水の神、芸能の神、財産の神ですから、芸能人や音楽家、作家などの崇敬を集めるのは自然です。が、1981年(昭和56年)、天河社において、天武天皇御造営以来、22回目となる御秘神・天河日輪天照辨財天の60年に1度の御開帳がされて以降、細野晴臣さんによって「精神世界の六本木」と呼ばれ、多くの参拝者が集いました。
作家や漫画家は、天河を物語のモチーフとし、国内外の音楽家はジャンルを問わず神事として演奏を奉納していきました。
そのことがメディアで報じられるとさらに人が集まり、一般的な神社のイメージからすれば型破り、ボーダーレスかつ身近で、特別な賑わいとなっていったのです。今でも芸能・芸術に関係する人々の参拝は多いことが知られる一方、広く若い人たちの参拝も目立ってきています。
あなたが天河を訪れることがあれば、きっと、この地の神秘と宇宙、原理が感じられるでしょう。
そして、その力や波動を受け、あるいは共鳴することによって、アイデアがひらめいたり、ビジョンが開けたり、活力を得たり、運命的な出会いを得たりするでしょう。ひいては、辨財天の大きなはたらきに感応し、道が開けてくるはずです。
■お知らせ
上記記事は、ゆほびか特別編集のムック『願いが叶う!最高の開運神社』からの抜粋です。
誌面では、鎌田東二さんが天河で得た貴重な三つの体験や、同社に伝わる神器「五十鈴」のお話を掲載しています。
また、同じく同社とのご縁が深い作家・ミュージシャンの阿部俊郎さんが平成元年に初めて天河を訪れた際のエピソードもご紹介しています。
ぜひ、天河大辨財天社の美麗写真とお二人のお話から、その果てしない御力に触れてみてください。