禅の教えは「一掃除、二信心」が基本
どうやったら、物事に動じない強い自分になれますか――。
そういう質問に対して、私はいつもこのようにお答えします。
「とにかく、ぞうきんを持ってごらんなさい」
ぞうきんを持つというのは、掃除をして、身の回りを清浄な状態に整えること。それによっておのずと道が見えてきますから、悩みの解決にもつながるのです。
これは、禅僧として78年を過ごしてきた私が、確信をもっていえることです。
そもそも、「掃除」という言葉の由来をご存じでしょうか。実は、仏教から生まれたものなのです。
禅の教えというのは、「一掃除、二信心」が基本。お勤めをしたり、書物を読んだりすることよりも、まず掃除をすることがたいせつだと説かれているんですね。
中国・元時代の禅僧に、非常に高徳なことで知られる中峰明本和尚(ちゅうほうみょうほんおしょう)というかたがいらっしゃいました。その座右の銘には、次のようなくだりがあります。
「常に苕箒(じょうしゅう)を携えて堂舎(どうしゃ)の塵を払え」
苕箒というのはほうきのことで、堂舎は自分自身の精神を指します。そして、塵は煩悩の例えです。
どういう意味かと申しますと、掃除という行為を通して、「煩悩を捨て、常に己の精神を清めておくことが大事だ」といっているわけです。
掃除は、単に住まいをきれいにするだけでなく、精神を整えるという意味もあるのです。いわば、心の鏡を磨くようなものといえましょう。
このように、禅において掃除は、どんな修行にも勝る修行として取り入れられているのです。
「見えない場所」こそ手を抜かずにきれいに
私は8歳のとき、大分県日田市の禅寺「岳林寺(がくりんじ)」に入ったのですが、小僧時代の15年間は、ひたすら掃除に明け暮れる毎日でした。それこそ1年365日、掃除に始まって掃除で終わる生活です。
掃除のなかでも、基本の「き」となるのが、ぞうきんがけです。禅寺では、ぞうきんなくして掃除はできません。廊下や板の間に始まり、トイレにいたるまで、ぞうきんはどこでも必要となります。
仏殿のご本尊を安置する「須弥壇(しゅみだん)」という壇上も、きれいに洗ったぞうきんでふき清めます。
たかが掃除とあなどるなかれ。それはもう、師匠には厳しく教えられたものです。
特に口ずっぱくいわれたのは、「見えない場所をきれいにしろ」です。
例えば、落とし掛け(床の間の天井に渡してある柱)の裏側とか、それこそ便器のふち裏なんかですね。
表側は誰でもきれいにしますが、見えない場所というのは、つい手を抜いてしまうもの。そんなとき、師匠はいつもこうおっしゃいました。
「見えないところや人が嫌がる場所こそ、気を抜いてはいかん。すみずみまで手をかけることが、〝ゆきとどく〟ということだ」
それで師匠にいわれたとおり、裏の裏まで磨き上げてみると、不思議と清々しい気持ちになるんですね。
見えないところにこそ、心が映る。そういう場所をぞうきんできれいにするのは、自分自身の精神を清めることにもつながるのだと体感しました。
お寺に入る前の私は、3人の女性がお世話係としてつくような、いわば〝お坊ちゃん〟でした。掃除などしたことがなかったんですね。
けれども、小僧時代の掃除のおかげで生きる力の基盤が作られ、もともと病気がちだった体も、ずいぶん強くなりました。
ギュッと手でしぼると心身がシャンとする
掃除道具のなかでも、ぞうきんほど人の成長にかかわるものはないと、私は考えています。
加えて、しぼるという行為は手先を使いますから、それが人間の能力開発にもつながると思うわけです。
日本人というのは、実に指先が器用で、細かい作業を得意とします。実際に、精密機械や伝統工芸などの職人を見ても、そのレベルの高さは世界でも群を抜いていますよね。
こうした手先の器用さは、箸を使う文化によって培われるといわれたりしますが、ぞうきんで掃除をすることも、大いに寄与しているのではないでしょうか。
私の知人である作家の五木寛之君は、よくこのようにこぼすんですね。
「今は、スプーンやフォークを使う洋食が増えて、日本人があまり箸を使わなくなった。嘆かわしいことです……」
同じことが、ぞうきんにもいえそうです。そういう意味では、日本人の特性である手先の器用さが失われはしないかと、たいへん危惧しているところなのです。
近ごろは、ぞうきんも市販品が簡単に手に入りますが、昔はどのご家庭でも、使い古したタオルや布で手作りしていました。
禅寺では、その習わしが今も残っています。たとえ布切れ一枚でも、最後まで無駄なく使う「リサイクル精神」をたいせつにしているんですね。
実は、私たち禅僧が身につける袈裟も、そのような繰りまわしの知恵から生まれたものです。
袈裟は、別名「糞掃衣(ふうぞえ)」といいます。そのいわれは文字どおり、お尻をふくのに使うほど着古した着物のなかから、まだ状態のいい部分を継ぎはぎして仕立てたことにあります。
再利用できるモノは、徹底的に使いまわす。傷んだタオルや衣服をぞうきんにするのはあたりまえなんです。
そして、ぞうきんがボロボロになっても、簡単には捨てません。玄関のたたきや庭の敷石の泥汚れをふいたりして、「これ以上は使えない」というところまで使い切ります。
昔であれば、最後にお風呂や竈(かまど)に火をくべるときの火種に使って、それでようやくおしまいでした。
手づくりのぞうきんを使っていると、そんなふうに「モノの命」もたいせつにする心が育まれます。
ぞうきんがけの真髄は、体を動かして触れるもの
ぞうきんの使い方については、上の欄をご参照いただきたいと思いますが、ポイントは、ふく場所によってしぼり加減を調整し、「濡れぶき」と「乾ぶき」を使い分けることです。
勘違いされやすいのですが、ぞうきんがけにおける乾ぶきというのは、ほとんど水気がなくなるまでしぼったぞうきんを使います。
完全に乾いたぞうきんでは汚れが取れにくいばかりか、逆に汚れを摺りこんでしまう可能性があるからです。
では、どんなところを乾ぶきするのかというと、お寺なら須弥壇をはじめ、床の間や畳、障子の桟(さん)といった「水分厳禁」の場所や、窓です。
窓の場合は、乾ぶきで汚れを取ったあと、もう一度、今度は完全に乾いたぞうきんでふきます。こうすると、ふき跡がガラスに残りません。
一方、乾ぶきよりもやや多めの水分を含む濡れぶきは、板の間や廊下などの掃除に向いています。
ぞうきんの使い方に、なぜ細かい作法が必要なのかについてですが、日々の暮らしを整える作業だからこそ、合理的な手順に従ったほうが、逆に楽なのです。
ぞうきんがけの真髄は、理屈だけではなかなか理解できないものです。「冷暖自知(れいだんじち)(真の悟りは自分で会得するものであるという意味)」という言葉のとおり、まずはご自身の体を動かして、その真髄に触れていただきたいと思います。