ふつうのおばあさんが、たくさんの人に喜ばれていた理由
人口3000人くらいの村でのお話です。
その村で、77歳くらいのおばあさんが亡くなりました。そうしたところ、3000人の村民のうちの1500人が、おばあさんの葬儀に参列したそうです。
新聞社の人が、あまりの人数に驚きました。村長が亡くなっても7~800人程度だったのが、このときはその倍の人たちが参列したからです。
「いったいなぜ、1500人も集まったのか」
と新聞記者が取材しました。
このおばあさんは、小学校の先生を55歳までやっていました。その後は、民生委員のようなことをやってはいましたが、特別なことはまったくしていない、ふつうのおばあさんでした。
そこで記者は、村民1人ひとりを取材しました。何十人、何百人と取材を重ねていって、わかったことがありました。
このおばあさんは、死ぬまで、自分の教え子の店でしか買い物をしなかったそうです。特別なことは、それだけでした。村に新しくできた大型スーパーやディスカウントストアへみんなが買い物に行くようになっても、おばあさんは、教え子の店にしか行かなかったそうです。大型スーパーよりも2割以上高いにもかかわらずです。それを、亡くなるまでずっと続けたそうです。
そのおばあさんは、いつもお店の人たちから、ほんとうに心のこもった、万感の思いを込めた「ありがとうございます」を浴びて暮らしていました。
お金を使うときは、「1円でも安ければ、安いほどいい」というわけではないのです。それよりも、喜ばれるようにお金を使ったら、いくらでもお金が喜んでやってきます。
いかに喜ばれるようにお金を使うかということは、いかに自分が喜ばれる存在になるかということに、他なりません。
開店したての喫茶店でコーヒーを飲むといい
喜ばれるお金の使い方を、もう1つ紹介します。
例えば、陶芸家をめざしている友人がいて、コーヒーカップを1客3000円で売っているとします。
そのとき、友人だからと安く買うのではなく、「私の名前を入れて、1万円で作って」と頼むのです。
カメラマンとして生計を立てようとしている人がいたら、写真集を何万円分か買う。
開店したばかりで、まだお客さんがついていないような喫茶店に入って、コーヒーを飲む。味のよし悪しは、関係ありません。喜ばれるようにお金を使うことが目的だから。
すべての存在が「喜ばれる存在」になることをテーマとしています。それは、お金も同じです。なので、お金も喜ばれたくてしかたがない状態で存在しています。
人に喜ばれるように使う、ということは、お金自身が喜ぶことでもあります。そのように使っていると、お金自身も、喜ばれるように使ってもらおうと、その人のところに集まってくるようです。
集まってきたら、そのお金を貯めこまない。貯めこまないで、さらに喜ばれるように使う。そのように、お金は流れているようです。