信頼できる人の存在がメンタル回復の糸口に
あいはら友子(以下、あいはら)2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、昨年3月の時点で延期が決まってしまいました。
井谷選手は、パラ陸上の短距離・リレーの一流選手ですから、コロナ禍ではメンタル的にかなりつらい時期を過ごされていたのでしょうか?
井谷俊介(以下、井谷) 代表内定を決めようと集中していた中で、練習環境がガラッと変わり、大会の中止や延期も続いて、モチベーションを保てないこともありました。
あいはら 気持ちがゼロどころかマイナスになったところから、2021年に向けて再びプラスに持ってくのはとても大変だったと思います。
不安を乗り越えるうえで、何か支えがあったのでしょうか?
井谷 存在として非常に大きかったのは、フィジカルトレーナーの仲田健(なかたけん)(※)さんです。
※国内No.1フィジカルトレーナと呼ばれ、プロゴルファーの石川遼選手を始めとする世界レベルのトップアスリートから竹内涼真さんなどの俳優陣まで、幅広い層から信頼を得ている
あいはら フィジカルだけでなく、メンタルでも支えになったということですか?
井谷 はい。こちらから特に何も言わなくても僕の変化に気づいてくれたり、厳しいトレーニングの中で「だいじょうぶ」「それは気にしなくていいよ」などの言葉をかけてくれたりなど、心から感謝しています。
あいはら 不安な中でも、信頼できる人がいたり、落ち着ける居場所があったりすると、メンタル回復の糸口が得られるものですよね。
井谷 僕の場合、不安がまったくなくなると、“現状に満足してしまう自分”が出てきてしまうので、ふだんは、適度の不安がある状態のほうがいいと考えています。
ただ、レースを走る瞬間には自信も必要なので、日頃のトレーニングを重ねることで、「不安と共存しながら、自信を高める」のが重要だと考えています。
「皆の笑顔を奪っている」と気付いたのが転機に
あいはら 学生時代の交通事故で右足のひざ下を失ったときは、私には想像できないほどの不安だったでしょうね。
井谷 そうですね。足がなくなった状態を初めて見たときは、絶望しました。医師から「義足を履けば歩けるし、スポーツでもなんでもできる」と言われたものの、いざ義足を履くと、痛すぎて立てないんです。
あいはら 今の、まったく違和感なく歩いたり走ったりされている井谷さんを見ていると、そんなだったなんて想像がつきませんが……。
井谷 当時は、歩くことすらあきらめそうになりました。「大学を卒業できるのか」「就職できるのか」「結婚して家族を持つことができるのか」など、未来に対する不安も一気に大きくなりました。
あいはら そこまで落ち込んだ気持ちを乗り越えられたのは、何かきっかけがあったのでしょうか?
井谷 あのとき、母と友人たちの存在がなかったら、おそらく落ち込んだままだったと思います。
あいはら お母様は、どのように接してくれたんですか?
井谷 母は、僕が小さい頃からいつも優しさや愛情を注いでくれていて、母に対しては大きな信頼があります。
事故直後は、お互いにひとこともしゃべることができなかったのですが、母はそれでもずっと病室で、そばに付き添っていてくれました。
あいはら そうだったのですね。お友だちはどんな様子でしたか?
井谷 友人たちも駆けつけてくれたのですが、やはり最初は、お互いに何もしゃべれませんでした。ふだんはすごく怖かった先輩も、涙を流して悲しんでくれていました。
あいはら そのときのお母様やご友人たちのつらさは、私には想像できないほどだったと思います。
井谷 はい。でも、そこで気づいたんです。「自分がこの世でいちばんつらい思いをしている」と感じていたけど、むしろ、「僕はなぜ、自分の不安やつらさをたいせつな人たちに共有させてしまっているんだろう」「皆の笑顔や幸せを、僕は奪っているのではないのか」と。
できると決めたことは絶対にいい方向に向かう
あいはら こんなに大変な状況なのに、自分の心配だけでなく、周りの人たちのことを考えていた?
井谷 そういうことになりますね。そして、「クヨクヨしても、いちいち不安に思っていても、何も変わらない」「今生きているだけでも、すごく大事なこと」と考えられるようになって、「皆のために元気な自分を見せよう!」となったんです。
あいはら 苦しい状況の中で、「人のために行動したい」と思えるかどうかって、ものすごくたいせつなことですね。
井谷 今思えば、その時点で元気な自分を見せようとしていたのは、から元気だったと思います。でも、そんな自分を見て、周りの皆がほんとうに笑顔になっていき、その笑顔を見ているうちに、から元気が「ほんとうの元気」になっていったんです。
そのときに、「皆の笑顔を見ていると、こんなに自分は元気になれるんだ!」と実感したのは、今でもよく覚えています。
あいはら 不安なことも、自分がやろうと決めたこと、できると決めたことは、絶対にいい方向に向かうんですよね。
井谷 そう思います。
あいはら それに、周りの人に感謝の心を持って行動すると、不安を乗り越えるためのパワーも湧いてきます。井谷さんの体験は、読者の皆さんにとって、不安を乗り越えるために参考になるし、しかも大きな勇気をいただけるお話だと思います。
より多くの人たちに笑顔と明るさを!
あいはら 今年の目標は、まずはパラリンピック陸上代表の内定ですね。
井谷 はい。そのために、まだまだタイムを上げていきたいです。1年延期になって、時間的に余裕ができたので、今までやってきたトレーニングを継続しつつ、プラスアルファの強化にも取り組んでいます。
あいはら その先の目標などは、何かありますでしょうか?
井谷 はい。僕がレースで使っているようなスポーツ用の義足は、今はまだ、ごく限られた人しか使えないものです。もし可能なら、足を失った子どもたちなど、もっと多くの人が、装具を使ってスポーツに力を注げるように、環境を整えていきたいなと思っています。
あいはら ご活躍を心から願います。競技を通じ、周りの人たちはもちろん、より多くの人たちに笑顔と明るさを広げられるといいですね。
井谷 おっしゃるとおりで、それが今の僕にとっての大きな目標です。
あいはら 本日は、ありがとうございました。
井谷 ありがとうございました。