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【大愚和尚】年末は“心”も大掃除を「心の整理、整頓、清掃」

年末は部屋だけでなく心も整理、整頓、清掃を

これから迎える年末は「まもなく1年が終わってしまうが、自分は何をやってきたのだろう」という焦りやさみしさが身に沁みる時期です。

私は毎年、年末が近づくと、大掃除の大切さを説いています。

それは、大掃除が、さみしさと向き合い、心を強くしていくのにぴったりだからです。

大掃除では、整理、整頓、清掃の3つを行いますが、この3つは部屋をキレイにすることだけが目的ではなく、私たちの濁った心もスッキリと片づけてくれるものです。

まず整理ですが、これは女性の生理と同様、自分の中の不要なものを捨てていくことを意味します。

整頓は、必要なものを見極めて、元の位置に戻すこと。

そして清掃は、自分の心を清らかにしていくことです。

心の整理、整頓、清掃は、仕事、家庭、人間関係を見直し、等身大の今の自分に何が必要で、何が必要じゃないかを見極めていきます。これはとても頭を使うので、非常に疲れる作業となりますが、終わった後は心が穏やかになります。

年を重ねると、自分が慣れ親しんだものを手放すことがさみしくなり、「ものが捨てられない」という人も多くなるでしょう。過去の自分を捨てていくような感覚で、すごくさみしさがあるのです。でも、持っているもの、抱えているものが多いほど、心がざわつきます。そもそも、自分が死んだときに、持っていけるものは一つもありません。

整理、整頓、清掃は、痛みを伴う作業ですが、さみしさと向き合える心を養ってくれます。

大事なのは、過去への執着ではなく、今と未来です。秋から年末にかけて、少しずつ、整理、整頓、清掃を行っていくことで、心穏やかに新しい年を迎えられるでしょう。

苦しみやさみしさも諸行無常で薄れていく

世の中のものは、全て移り変わり、永遠に変わらないものはありません。

この仏教用語でいう「諸行無常」は、物悲しい響きを持って語られることが多いのですが、これは可能性を示した教えでもあるのです。

私たちの命は、生まれた瞬間から変化し続け、死滅に向かっています。好きだった人とお別れしたり、楽しかったことができなくなったりすると、つらいと感じることもあるでしょう。

一方で、自分がすごく苦しかったり、すごく嫌だったこともまた移り変わっていくのです。

私たちの肌は28日周期で、筋肉は3カ月で、骨は3~7年で細胞が入れ替わっています。7年前の私はもうどこにもいません。

肉体がそうであるように、私たちの心も毎年毎年、新しい自分に入れ替わって、新しい自分を生きることができます。

これは、苦しみやさみしさを抱えた人にとっては、それが薄れていく可能性であり、希望となります。

私たちは、毎日死んで、毎日新しい自分として生まれ変わっているとわかれば、整理、整頓、清掃で過去を手放しやすくなるのではないでしょうか。

諸行無常の世の中で、時代の変化に取り残されてしまうのではなく、流されてしまうのでもなく、自分から変わっていくことができれば、諸行無常という波に乗れるようになり、生きやすくなるはずです。

しかし、急に波乗りがうまくなるわけではなく、何を残して何を変えていくのか、自分に何が必要なのかを常に問うていないと、バランスをとって波には乗れません。乗るべき波を間違えてもいけませんし、自分の力に合った波でなければ、波にのまれてひっくり返ってしまいます。

そのためにも、心の整理、整頓、清掃は、大掃除のときだけでなく、できれば3カ月に1回程度行っていただくと、いい波に乗りやすくなるでしょう。

来年また命があるならば新しい自分を生きられる

私は、毎年、年末が近づくと「整理、整頓、清掃は、年末で自分の人生が終わるというつもりでやってみてください」と話しています。

諸行無常で、自分も自分の家族もいつかは死んでしまいますが、ふだんは誰もがそのことを考えないようにして、目を背けています。

しかし、まもなく人生が終わるのならば、大切にしなければいけない人が誰なのか、やり残していることは何なのかを、あらためて考えるようになるはずです。

整理、整頓、清掃は、終活でもあり、自分の老いや死に向き合うレッスンでもあります。

整理、整頓、清掃して手放すことは、小さな死であり、新たな生まれ変わりであり、「来年、命があるのなら、新しい自分をまた生きていこう」という推進力になります。

さみしさ以上に、新しい年をまた迎えられる喜びと、勇気がもらえるようになるでしょう。

人間はさみしい生き物だが「わたし」を捨てられない

さみしさは本能であり、さみしさを感じない人はいません。

人間という字は、人の間と書きます。人の間で生きている私たちは、人が離れていくとさみしさを感じる生き物なのです。

それなのに、人と人とのかかわりの中で生きていることをつい忘れてしまって、多くの人が自分のエゴで生きてしまっています。

例えば、混んでいるファミレスで、なかなか注文したものが来ないときに「俺の食べ物はまだ出てこないのか!」と怒るお客さんがいます。

人が怒るのは、「〝わたし〟を大事にしてくれなかった」というエゴからきています。

わたしに執着して、わたしのエゴを満たさなかった人を「失礼だ」と言って怒っているのです。

つきあっている男女でも、「わたしだけを愛して」「わたしだけを見て」「わたしを捨てないで」というエゴがぶつかって、ケンカになることが多くあります。

お釈迦様の究極の答えは「わたし」を超えていく

仏教では、余計なものを捨てていき、最後に捨てるべきものは「わたし」だという教えがあります。

もちろん、私たちは自分の命が大事ですし、わたしを捨ててしまうことはできません。だからこそ、「わたしを超えていく」ことが、お釈迦さまの究極の教えです。

これだけわたしが自分のことを大事に思っているということは、あの人もやっぱり同じように自分のことを大事に思っているのです。

わたしと同じように自分のことを大事に思っている人が、あそこにも、ここにもいます。

そんな中で、「わたしをいちばん大事にして」「優先して」「わたしの話だけを聞いて」と誰もが自分のことだけしか考えずに生きると、エゴとエゴがぶつかり合います。

一方で、わたしだってこんなに自分を大事にしてほしいと思っているのだから、ほかの人も同じように自分のことを大事に思っているのだなと、ほかの人の自尊心も大事にすると、「わたしを超えていく」ことができます。

「わたしのことを大事にしてほしいけれど、あなたのことも大事にして行きますよ」

そういうスタンスで人とつきあうと、「あの人はこんなに思いやりを持って接してくれた。だから自分も何かお返しをしよう」という温かい気持ちが生まれます。

奪い合いの世界から、お互い与え合って支えていく環境が、自分の周りに出現するのです。

人の間でしか生きていけない私たちは、どうしたって自分ひとりでは生きられません。

嫌な人間関係を断ち切って、ひとりで生きているつもりでも、病気になったら誰かに助けてもらわないといけないのです。

もし、あなたがひとりでさみしいと感じるのならば、相手を尊重して、本当に自分にとって大事な人との関係をちゃんとつないでいく努力をしていかなければなりません。

仲間とともに生きるなら大掃除でエゴを捨てる

人間にとって本当の幸せは、自分が信頼できる人との深い関係を築いていけることだと思います。

心に落ち着きや平和、喜びをもたらしたいのであれば、おろそかにしてきた人と人との関係を見直すべきでしょう。

年齢とともに、限られた人間関係になりがちですが、その中でエゴ丸出しで生きると、その限られた人間関係からも排除されてしまいます。

お釈迦様は「友達が欲しいなら与えなさい」とおっしゃっています。

あなたに友達がいないのは、あなたが与えていないからです。

あなたも欲しいなら、ほかの人も欲しいのです。何でもいいから、自分が与えられるものを与えましょう。お金があればお金を、知識があれば知識を、力があれば力を与えればいいのです。

でも、お金も何もなくても、誰でも与えられるものに「無財の七施」(眼施、和顔施、言辞施、身施、心施、床座施、房舎施)があります。

本当はさみしいのに、さみしさの裏返しとして意地悪なことを言ったりする人がいますが、子どもなら許せても、大人なら周りから人が離れていってしまいます。

人は人の間でしか生きていけないのですから、強がりや見え、意地、嫉妬、欲、怒りなどはどんどん手放して、シンプルにすなおに、謙虚にふるまいたいものです。

そのために、この無財の七施を心がけていただくと、人に恵まれ、さみしさにもきちんと向き合って生きていけるようになります。

そして、人は誰でもさみしいので、さみしさを共に歩んでいくという仲間が必要です。

そんな仲間が、自分の周りからいなくなってしまうとしたら、いちばん整理しなければいけないのは、自分のエゴでしょう。

実は、年をとればとるほど、自分のエゴは増えていくものです。

ですから、私たちが大掃除で捨ててしまわないといけないものは、第一にエゴなのだと考えてください。

挨拶の「挨」は近づく「拶」は引き出す

無財の七施は、誰もが簡単に実践できることではありません。

料理やスポーツと同じで、話を聞いただけではだめで、練習を積み重ねて、上手になるものです。

笑顔で接してほしい、やさしく接してほしいと思っているのに、自分は仏頂面で、笑顔で人と接する努力をしないというのは、怠慢でしかありません。

人に求めるのなら、自分も与えましょう。鏡の前で笑顔の練習をして、実際に周りの人に笑顔を向け続けるうちに、自然な笑顔が身につくはずです。

挨拶も同じです。

挨拶は仏教用語で、「挨」は近づいていく、「拶」は何かを引き出して行くという意味です。

僧侶が弟子に近づいて、弟子のいいところを引き出していく、生徒さんが先生に近づいて教えを請う、といった姿勢を挨拶と言います。

近づいて相手の心を開き、相手の持っているものを引き出していく、そういう真剣勝負が、もともとの挨拶なのです。

「おはようございます」と、元気ににこやかに言われると、いい気分になって、心も開くはずです。

逆に、感じの悪い挨拶をされると、不快な気持ちになって、相手への警戒心が強くなるでしょう。

とはいえ、にこやかな挨拶というのも、一瞬でできるようになるものではありません。

気持ちがいい挨拶をしてくれた人から挨拶の仕方を学び、自分もそれを心がけることで、習慣化して、何気ない挨拶が、気持ちいい挨拶になっていくのです。

それは、仕事のパフォーマンスでも、家族との関係でも同じです。小さな心がけが積み重なって、その人の人生がより豊かなものになっていくのです。

たった一言の挨拶を意識して実践するだけで、相手からも優しさや温かさを感じることができ、人との絆が深まる、挨拶の効果は絶大と言えるでしょう。

自分から与えることでさみしさを超えていく

田舎暮らしは人間関係が煩わしいというかたもいますが、助け合いの精神が浸透していて、自分の畑で採れた野菜などを近所の人に分け合うこともよくあります。

驚いたのは、それは住んでいたかたが亡くなった後も続くということです。

地元で、あるおばあさんが亡くなったとき、その後も近所の人が「生前お世話になったから」と野菜を持ってきてくださるという話を、お子さんからうかがいました。

このお子さんが、おばあさんから受け継いだものは、家や土地だけではなく、近所の人に親切にしていて慕われていたという、おばあさんの生き方です。

自分が亡くなった後も、そんなふうに慕ってくれる人たちがいると、さみしい死ではないはずです。

こういったお話からは、老後の心配をするなら、お金を貯め込むのではなく、周りに与えていくことが幸せに死んでいく秘訣なのだと学ぶことができます。

また、私の同級生のお母さんが亡くなったときも、驚くことがありました。

その同級生は、刑務所に入っており、家族はバラバラで、お母さんが亡くなっても、葬儀をする人がいませんでした。

そんなとき、大阪から愛知県まであるご夫婦がいらして、「私たちに四十九日までやらせてください」とおっしゃるのです。

なんでも、その奥様がお店で働いていたとき、同僚にいじめられて泣いていたら、亡くなったお母さんが助けてくれたそうです。

そのときに親切にしてもらったことが忘れられず、人づてにお母さんが亡くなったと聞き、親戚ではないけれど、自分たちが納骨までめんどうを見たいとのことでした。

人の死にざまは、まさにその人の生きざまだというお話です。

皆さんも、自分のエゴを少しでも薄めて、人に与えることを心がけると、心が清らかになるでしょう。

さらに、人から「ありがとう」と感謝されますし、自分が人を大事にしたら、相手もまた自分のことを大事にしてくれます。

そうして、さみしさをともに歩んでいく仲間がだんだん増えると、さみしさを超えていくことができるのです。年末に向けた整理、整頓、清掃で、ぜひ、ご自身の心の中を見直してみてください。

この記事は『ゆほびか』2022年12月号に掲載されています。