90歳の今も読むのが楽しい!
校正歴67年、本誌は創刊号から!
上京して教育出版の編集者に
こんにちは。『ゆほびか』編集部の校正をしております東です。編集部から「校正歴67年の現役校正者の老いない習慣を書いてほしい」と依頼されました。
自分のことを書くのは難しいものです。私はどんな人間なのか。なぜ、90歳の今も現役を続けられているのかを考察するに当たって、フリーライターだった寺門克さんが、昭和55年(1980)秋に実務教育出版から出した『比較日本の会社 出版社』の中の一部を引用させてください。
文中「S」と記されているのが、私です。
閑話休題
〝プロ〟編集者の意味
Sは、プロの編集者である。なぜ〝プロの〟と断わったのか。出版社の編集部員として出版社から月給をもらっているのではなく、雑誌や単行本の編集を請け負って委嘱料をもらう仕事をしているからだ。作家やレポーターやカメラマンと同じく、一つ一つの仕事の評価が次の注文を約束してくれる。
裏街道の編集者
Sは昭和三十年(一九五五)、早稲田大学を卒業すると九州・博多の小さな雑誌出版社に入った。
いわゆる〝赤雑誌〟というか、〝イエローペーパー〟というか、〝チョウチン〟記事とゴシップ記事専門で、大学新卒としてそんな雑誌社に入ってしまったSは、とまどいながら二年間そこで仕事をし、雑誌作りの仕組みを学んだ。
取材をし、写真を撮り、記事をつくり、編集をして印刷所とかけ合いながら、校正をし、進行をチェックし、仕上げる仕事に専念した。
……裏街道で神経のたくましさを身に着けたSは、体にドブの匂いが染みついてしまう前に這い上がり、上京して〝まとも〟な出版社に移ったのだ。
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『比較日本の会社 出版社』(実務教育出版)
昭和33年(1958)、博多から取材で東京へ来た際、早々に仕事を片付けて目白台へ向かい、教育書・児童図書の出版社国土社を訪ねました。学生時代、国土社のすぐ近く、長宗泰造社長ご自宅の隣家に下宿していたことがあったのです。
3年ぶりに社長室でお顔を拝見、そのとたん、「博多を引き上げて、当社に来い」と社長に誘われました。
博多に帰って仕事を整理し、1週間後には東京に戻って国土社で仕事を始めました。
長宗社長は、厚徳社という印刷会社も経営されているので、出版の仕事は非常に進めやすいものでした。
新書ブームの走りの時期で、今私の手元に残っているのに、大西忠治『国土新書7 集団教育入門』、遠山啓『国土新書9 しろうと教育談』、斎藤喜博『国土新書11 一つの教師論』、品川不二郎『国土新書13 テストの心理学』などがあります。
国土社は、東大教育学部教授たちとの交流も深く、学部の研究室には私も気軽に出入りができ、学生さんたちとも親しくさせてもらいました。今も交流が続いている千葉大学教育学部教授の藤川大祐さんは、その学生メンバーのキャップでした。
校正と雑誌編集の二足の草鞋
5年ほど経った頃、国土社入社時の上司で、その後角川書店に移っていた服部光中さんが、突然国土社に現れ、「今、長宗社長の了解を得てきたから、アルバイトで角川文庫の校正の仕事を始めてくれ」と。
このような事態に進むのでは?という思いは、意識の深いところでいつも期待を込めてちらついていたので、何のためらいもなく引き受けました。
角川書店の校正室の文庫部門には、新入社員の川久保十士雄さんが配置され、その担当文庫本の校正をすることになりました(5歳年下の川久保さんとのコンビは、彼が校正室長で定年退社するまで、40年ほど続きました)。
私は、角川書店の仕事を始めて間もなく、国土社を退社しました。角川の文庫本の校正を中心に完全なフリーランスになろうと心がけ、消防関係の月刊誌、釣りの月刊誌などの編集・校正も手掛けていきました。
やがて、日本経営出版会の仕事も手掛けるようになり、ここでは、固定した専用の机を提供されました。そして月刊誌『事務と経営』(印刷は奥村印刷)にタッチしたあたりで、角川のアルバイトは抱えたままで社員になり、やがて同誌の編集長に。
なお、この頃から、奥村印刷の営業部所属の小さな一室を、校正専用の形で使わせてもらえるようになりました。
そして、昭和47年(1972)9月1日、会社で仕事中に、妊娠入院中の妻が、男児誕生を電話で知らせてきました。
この時、私は40歳。直ちに辞表を書いて退社を申請。
前記した寺門さんの著書には、その時の状況が次のように書かれています。
≪「何が不満なんだ。月給か?」
「月給に不満はありますが、お金だけだったら、ご存じのアルバイトで稼げます。ただ、もう少しフリーに仕事をしてみたいものですから」
「それじゃ、君、辞めるのは認めるとして、少なくともあと半年、この雑誌の企画と製作の面倒を見てくれないか。毎日出勤してくれなくてもいい、月給は払うから」≫
『比較日本の会社 出版社』(実務教育出版)
前記した通り、この〈閑話休題〉が載っている書籍が出版されたのは、私が日本経営出版会を退社してから7、8年後のこと。
寺門さんと知り合ったのは、この退社の数カ月前でした。そして、この退社の直後、彼とコンビで第一勧銀(現・みずほ銀行)の系列会社、第一勧銀経営センターの月刊誌『DKMマネジメントレポート』の仕事を担当することになったのです。印刷所は私が奥村印刷を希望。「第一勧銀さんとは神保町支店に口座があるというだけのご縁だったのに」と、奥村印刷は大喜びでした。
こうして始まった『DKMマネジメントレポート』の仕事は、角川書店や釣り新聞・雑誌などの仕事とともに20年ほど続きますが、やがて、角川の川久保さんの定年退社、私も角川の校正の仕事は終了、前後してDKMの仕事も終わりました。
『ゆほびか』創刊から27年。そして現在
平成7年(1995)の秋、ある出版社の編集室で、たまたまそこを訪れていたマキノ出版の梶山正明さんに、フリーの校正者だと紹介されました。
梶山さんは、月刊誌の創刊準備中で、校正者を探しているところ、明日会社に来てみてくれとのこと。
翌日、マキノ出版を訪ね、新雑誌『ゆほびか』の校正を担当することになり、賑やかな創刊準備に参加、間もなく1995年11月、創刊号が発行されました。そのとき私は63歳になっていました。
以来、梶山正明さんを初代に、稲川武司さん、西田徹さん、高畑圭さん、現・髙槗真人さんと、27年間に計5人の編集長のもとで校正の仕事を続けさせてもらっています。
その間、書籍やムックなど、マキノ出版の他部門からの校正の仕事も回ってくるようになりました。
3年前、マキノ出版からKADO KAWAへ転社していた河村伸治さんからも、校正の仕事が回ってき始めました。
河村さんは「経理に校正料の伝票を渡したら、マキノの経理で見ていたのと同じ東さんへの支払い口座が生き残っていて、びっくりした」とのこと。この春から教養・生活文化統括部ビジネス編集部ビジネス1課の編集長になり、「直接担当の新刊書の数が減ると思うけど」と言いながら、校正の仕事を回してくれています。
なぜ、私は現役を続けられるのか
博多で、新卒の身で出版の仕事に顔を突っ込んでから67年(最初から校正もしていたので校正歴も67年)、完全フリーランスになってから50年。
祖父は、明治の前、慶応年間に生まれ、流れ教師が仕事。60歳で退職して隠居、85歳で亡くなりました。
父は、明治38年生まれで鉱山ボーリングの技師でしたが、やはり60歳で退職・隠居。平成14年(200 2)に98歳で亡くなりました。
2人とも、いわゆる還暦で引退・隠居後、25年、38年と生き続けました。私は、その定年、隠居生活の仔細を見て、その流れを本能的・潜在意識的に避けて、定年のないフリーランスの世界を選んだのでしょう。
若い時からフリーランスを望んでいた私には、いわゆる定年のイメージがありませんでした。
『ゆほびか』の仕事を始めた27年前が、すでに63歳。勤め人の世界では定年を迎える時期でしたが、仕事をやめなければ……という意識、気持ちは全くありませんでした。それは今も続いています。
肉体的には――今も週に1、2回は、1里半(6㎞)から2里(8㎞)ほど歩いています。通常の散歩よりはかなり速歩きですが、疲れは残りません。年齢も歩行距離も全く気にしていません。
食事の面では――しばしば「いくら魚好きといっても、よくそんなに骨ごと食えるな」と言われます。これは、小学校に入る直前、ごく軽度の小児結核を患ったとき、医師から、自分の手のひらに入る魚を、骨ごと食べるように勧められたのがスタート。魚好きもあって、その〝骨ごと食べる〟は、90歳になった今もフルに続いています。いまだに入れ歯が1本もないのも、この〝魚を骨ごと〟のおかげでしょうか。
そして、お酒――。十年ほど前、医師と相談の結果、夕食に生ビールの中缶を月に24本と決定。以後、これは守られているのですが、「外で客と」となると、その時しだい。
この〝その時しだい〟が、この2年ほどコロナ禍で不都合な状態にありますが、大量・長時間飲んでも、翌朝に宿酔いが残らないのは、従来通りです。
歩ける/骨付き魚が好き/歯が完璧丈夫/酒が好き――と並べると、「だから90超えても元気」となるのでしょうか。
「健康を測る尺度は検査数値ではなく、毎日を気分よく過ごせるかどうか」――昨夜校正をした、10月10日初版本『シャキッと75歳、ヨボヨボ75歳』(和田秀樹著・マキノ出版)のカバーを飾る2行です。世に出る前に誰よりも先に読むことができる。校正者にはこんな喜びもあり、毎日を気分よく過ごせるのです。