京都の名刹のなかでも歴史が深く、ひときわ神秘的な雰囲気が魅力の鞍馬寺。毎年5 月に開催される秘儀・五月満月祭には1000 人を超える人々が訪れます。40年もの間、鞍馬寺にお勤めしている曽根祥子さんに、鞍馬寺特有の尊天信仰について、そして大人気の五月満月祭について伺いました。
●本記事は『ゆほびかGOLD』2020年6月号の記事を再編集したものです。
●公式サイト https://www.kuramadera.or.jp/
●語り
鞍馬寺学芸員 曽根祥子
①宇宙的なエネルギーが満ちる神秘の古刹・鞍馬寺
牛若丸の修行地として知られ、天狗にまつわる不思議な伝説が残る鞍馬寺は、豊かな自然に抱かれた京都北方の古刹です。平安京の北に位置することから都の北方守護の寺として、古くから信仰を集めてきました。
合気道の開祖・植芝盛平や、大本教の出口王仁三郎が鞍馬山で修行を行ったり、レイキの開祖・臼井甕男がこの地でレイキを感得したりするなど、精神世界の要人たちにもインスピレーションを与えてきました。
「古くから、僧侶や修験者たちがこの地の発する強いエネルギーを感じ、鞍馬山を目指していたのでしょう。
今も多くのかたがたが参拝されますが、なかでも5月の満月に執り行われていた秘儀を『五月満月祭(ウエサク祭)』と称して一般にも開放したところ、年々たくさんのかたが参加されるようになり、驚くほどの盛り上がりを見せています」
縁起から読み解く鞍馬寺の始まり
古今東西、人々を惹きつける鞍馬寺とは一体どんなお寺なのでしょう。
寺に伝わる「鞍馬蓋寺縁起」によると、奈良時代の末期にあたる宝亀元年(770年)、鑑真和上の高弟であった鑑禎上人がお告げで示された鞍馬山に赴きます。
山中で鬼女に襲われたところを、木に姿を変えた毘沙門天が鬼女を踏み倒してお助けになり、翌朝お像が出現したので、そこに草庵を結んでお祀りしたのが始まりと言われています。
そこから平安の世に移り変わった数十年後、ずっと「観音様を祀りたい」と願っていた藤原伊勢人という貴族が、霊夢のお告げと白馬の助けによって、鞍馬山にたどり着きました。
そこにはすでに鑑禎上人の手によって毘沙門天が祀られていたのですが、藤原伊勢人は「観音様と毘沙門天様は法華と華厳のように名は違うけれど、人を救うことには変わりがない。迷わず毘沙門天様を祀る堂舎を建てればよい」とお告げを受けたそうです。
そこで毘沙門天を祀る立派な堂塔伽藍を整備し、横に観音堂を造ったと言われています。そして、鞍を負った馬がこの山を示したことにちなんで、鞍馬寺と呼ぶようになったと伝えられています。
古代から信仰される護法魔王尊の存在
また、神智学にも明るかった昭和期の鞍馬寺貫主(※注1)・信樂香雲は、鞍馬山は650万年前に護法魔王尊が人類救済のために金星から降り立った山であることを伝えました。
※注1…寺の住職
護法魔王尊は宇宙神霊(サナート・クマラ)とも、鞍馬天狗の総帥とも言われています。
太古の昔から大地の力に満ちた霊山として信仰を集めている鞍馬山には、護法魔王尊の働きがさまざまな形に変化して表出していると考えられています。
「信樂香雲の娘で、2022年に逝去するまで鞍馬寺貫主を勤めた信樂香仁は、よく護法魔王尊を鞍馬山のお力そのものと言いました。また、仏より古く存在する”山の神”とも言えるでしょう。縁起には、鞍馬山には毘沙門天をお迎えする前に鬼がいたとあります。
鬼というのは、つまり山の神のこと。元々は古神道や修験道などの信仰があったところに、当時の外来思想である仏教が入ってきたため、対立する信仰の比喩として、山の神=鬼としたのでしょう。
毘沙門天が鬼を踏み倒したというのは、仏教が古神道的なものに取って代わったという表現ではないかと民族学の専門家などは言っています。仏教と既存の信仰との当時の葛藤を、縁起ではこのように紐解くのでしょう」
古代からの山の神信仰や観音信仰が融合するなど長い歴史のなかで、独自の信仰が形成されていった鞍馬寺。
これを背景に、現在は鞍馬弘教の総本山として信徒・末寺を抱えています。「平安時代の末からは宗派として天台宗に属していましたが、いろいろな信仰を包摂しながら変遷を重ね、戦後昭和22年に前述の信樂香雲が歴史ある信仰の流れを統合し『鞍馬弘教』と称するようになって今に至っています」
(②に続きます)