戦時には弾除けのお守りとして重宝された
サムハラとは、強い災厄除けの力があるとされる不思議な四文字(下)の読み仮名です。
古来、この四文字には虫除けやケガ除けの力があるとされ、戦時には弾除けのお守りとして重宝されました。日中戦争の際には、サムハラの四文字が記された千人針(たくさんの女性が一針ずつ縫って作るお守り)が作られたほどです。
サムハラの四文字が記されたお守りを頒布する神社仏閣も現れ、仁丹の新聞広告で「サムハラの護符を無料配布」という文字が躍ったこともあったようです。
そして実際、こうしたサムハラ守りを身につけたり、呪文のようにサムハラと唱えたりした人からは、激戦の地から生還できた、重い病気が癒えたなど、さまざまな体験談がもたらされ、サムハラ信仰は全国へと広がっていくことになります。
サムハラの四文字は一見、漢字のように見えますが、実際にはこうした漢字は存在しません。無傷無病をもたらす「神字」とされています。
かつて、とりわけ東日本において、サムハラは知る人ぞ知る存在でした。しかし現在では、サムハラ信仰を受け継ぐ神社仏閣の中で最も知名度の高いサムハラ神社の人気が上がるとともに、サムハラの四文字について知る人が増えています。
遅くとも江戸時代には広まっていたサムハラ信仰
サムハラ神社といえば、真っ先に思い浮かぶのが大阪・立売堀のそれです。入手困難なサムハラの指輪を受けるために、数百人の大行列ができることでも有名です。
ですが、岡山県の津山市加茂町に、サムハラ神社奥の宮と呼ばれる神社があることをご存じでしょうか。実は、こちらがサムハラ神社の発祥の地なのです。
サムハラ信仰は、遅くとも江戸時代には広まっていたことが文献によって確認できます。中国地方にはサムハラ信仰にまつわる神社もあったとされますが、明治・大正の時期には廃れていたようです。
これを、商人の田中富三郎氏が自らの出身地である岡山県の旧加茂町にサムハラ聖殿として復興します。
しかし、サムハラ聖殿は、禁止されていた無願神社(一般には簡素な素材で作られた無届けの神社)であることを岡山県に指摘され、1936年に田中氏自らが破却処分します。
戦後、田中氏はこの聖殿を再建します。そして、大阪の中之島にもサムハラ神社を建立。それが1962年に現在の立売堀に遷座したという経緯があります。
田中富三郎氏がサムハラ聖殿を建立したのは、現在の津山市加茂町中原にある日詰山という山の中です。サムハラ聖殿は長年その場で守られていましたが、現在では祠として残っており、元宮と呼ばれています。
これは、2005年に同じ日詰山に、新しく鳥居と社殿が建立され、御霊が移されたからです。この新社殿が現在、サムハラ神社奥の宮と呼ばれているわけです。
とにかくすばらしいご神氣に満ちた場所であることは間違いありません。ぜひ、一度訪れて体感してみてください。
■お知らせ
ゆほびか特別編集のムック『願いが叶う!最高の開運神社』では、サムハラ神社奥の宮を管理されている原田章充総代長に、奥の宮にまつわるお話を伺っています。
また、岡山県のご出身でノートルダム清心女子大学教授の保江邦夫さんには、サムハラ神社奥の宮が幽玄界のピラミッドとつながっているというお話を伺っています。
ぜひご覧ください!