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【桜井識子】さんが伏見稲荷の神様に伺ったお稲荷さんのお話~後編~

2021/05/07

※こちらの記事は『京都でひっそりスピリチュアル』(宝島社)より抜粋の上、一部編集を施したものです。

前編はこちら

眷属が守りにきてくれることも

 伏見稲荷には膨大な数の眷属がいます。眷属は神様のお手伝いをして修行をするのがメインですが、これほど多くの眷属がいたら「もっと頑張りたい」と自分で自発的に修行をする眷属もいます。それはどういうシステムなのか、詳しく聞いてみました。

 眷属は神社を訪れる参拝客をすべて見ています。毎日毎日大勢の人間を見ているので、人間性が輝いている人が来ればひと目でわかります。「この人は善良な人だ、守ってやりたい」と思うと、その人について行きます(もちろん神様の許可をいただいてからです)。家まで行くのです。そしてその人の家を拠点にしてその人を守護することを始めます。つまり自分から出張に出かけていくというわけです。そこで修行をします。

 どんな人について行くのかひとことで言うと、魂が純粋な人です。お腹の中が空っぽで、人を蹴落とそうとか騙そう、操ろうという気持ちがまったくなく、驕ったり人を見下したりもしない、心がピュアな人です。

 徳を積んでいるとか、良い行ないをしているとか、そのような〝行ない〟で判断するのではなく、その人の真の〝人間性〟で選んでいます。

 守護する期間にも決まりはなくて、眷属それぞれとなっています。1年もいれば3年、5年という眷属もいます。10年、一生という場合もあります。人間の一生なんて神様の時間に比べたら微々たるものですから、神様側からすれば長いという意識はありません。「ちょっと行ってきます」程度の期間なのです。

 1年以上いると、徐々に力が落ちていきます。それは所属している神社、神様の元を離れているからです。力が落ちると守る能力も低下してくるので、そうなったら一旦稲荷山に戻って充電するための修行をします。

 実は私の叔母が若い頃に伏見稲荷へ行ってこの恩恵をいただいています。叔母は一生コースのようで、今も守ってもらっています。

眷属のために人間ができること

 眷属がついてきてくれたとして、神棚はどうすればいいのか? というと、来たことがわかったのであれば作ったほうがいいです。そのほうが眷属も快適に居ることができますし、長く居られます。神棚を作ればそこに入ります。

 眷属の存在に気づかない場合、もしくは神棚が作れない場合は「眷属のほうで」どうするか考えます。「神棚はあったほうがいいよ」と誰かが助言したり、テレビで立て続けに神棚特集を見るとか、どこかの神社で見て欲しくてたまらなくなるとか、そのようにして作るよう働きかけるかもしれませんし、最初から自分で宿る場所を見つけてそこに居るかもしれません。
 宿る場所、これは神仏にはどうしても必要だからです。うまく宿れる場所があればそれでいいし、もしもなければ、そのままお帰りになります。

 三峯神社(※注9)などの出張制度がある神社は、おふだとともに眷属が1年の〝期間限定〟で来てくれます。この場合は、おふだを人間の息がかからない高い位置に置いておけばそれでOKです。神棚をわざわざ設置する必要はありませんが、作って差し上げると眷属は1年間、居心地よく過ごすことができます。

 おふだのまま置いておくのでしたらお供えはしなくても大丈夫ですが、神棚を設置した場合、お塩は常時あげておいて、1日と15日はお酒もお供えするといいです。神棚の設置やお供え物については『神社仏閣 パワースポットで神さまとコンタクトしてきました』(ハート出版)に詳しく書いていますので、そちらをご覧になっていただければと思います。

伏見稲荷の眷属には、このように自分から守りたい人を見つけて修行をする、というパターンがあるので、心は常に正しく持ち、歪ませない、汚さないことが大事です。ふらっと参拝しただけで一生守ってもらえる、こんな幸運も神社にはたまにあるのです。

苔むした石碑が密集する「お塚信仰」の現在

 メインの参道ではないところを歩いていたら、「弘法ノ滝」というところに着きました。密集した石碑が苔むしています。
 一ノ峯の裏側もそうですが、稲荷山にはあちこちに石碑が集中して立てられているエリアがあります。その石碑には「○○大神」とか「○○大明神」と刻まれていて、その名前もさまざまです。石碑だけでなく小さな祠もありますし、狛狐の置物もたくさん置かれています。

弘法ノ滝

 これは「お塚信仰」と言われるもので、お稲荷さんを信仰する人が私的な参拝場所として作っているそうです。ですからお稲荷さんの名前は、自由に好きな名前を刻んでいるというわけです。

 現在はほとんどが放置されて古くなっており、狛狐などは苔で、緑の毛がフサフサと生えているように見えます。明治以降に盛んになったらしいのですが、7〜8割が今では誰にも参拝してもらえない、手入れもされていない……という状態でした。

1万基の寂寥とした風情のお塚

 このお塚は、稲荷山に1万基あると言われています。弘法ノ滝もお塚信仰の場となっていて、たくさんの石碑や祠があります。緑になった狛狐だらけです。ここは欧米人の情報誌に載っているのか、日本人やアジア系の人はいませんでしたが、欧米人はそこそこいて、せっせと撮影していました。「わびさび」の世界と言えなくもない雰囲気だからだと思います。

御膳谷奉拝所

 苔まみれになっている狛狐をじっと見ていたらなんとも言えない気持ちになりました。白い狐像が黒く汚れているもの、クモの巣が張っているものもありました。打ち捨てられている感があり、寂寥とした風景なのです。

伏見のお稲荷さんがお話しされた人間の信仰の脆さ

 そこで伏見のお稲荷さんと繋がることができたのでお話を聞きました。

 人間は……信仰が続かない人が多いそうです。お稲荷さんは人間のために一生懸命に働いて願掛けを叶えてやり、世話もしてやり、面倒をみます。それなのに、人間側は飽きるともう来ない、参拝の情熱が覚めるともう来ない、願いが叶った時点で来ない、お金持ちになったら来ない、とあっさり信仰をやめるケースが少なくないと言うのです。

一ノ峯のお塚

 打ち捨てられたお稲荷さんは徐々に力が無くなっていきます。
 神社が取り壊されたりして、ご祭神から外れたお稲荷さんは縛りがなくなるので、伏見のお稲荷さんの眷属にできます。眷属として使うことにより、救っているのだそうです。そうやって救えるお稲荷さんは眷属にするけれど、それができないものは……と、その先は聞いていません。なんだか悲しくて聞けませんでした。はかなく消えていくのかなぁ、と思います。

人間を思ってくれる神様を捨てるということ

 涙があとからあとから流れてくる話で、胸が苦しくなりました。願掛けを叶えたり、身を守ってくれたりして一生懸命に働いた神様を、人間側が捨てる……。  
 これが山岳系神様なら問題ありません。神様の種類が違うからです。ですが、お稲荷さんという神様は信仰がなくなると、力が低下していきます。

 将門さんの終焉地である北山稲荷も鳥居は立派でした。ということはそれを奉納した人がいるわけで、信仰していた人が多かった時は一生懸命に働かれていたのだと思います。けれど、人々の足が遠のき始めると、境内は草に埋もれていき、最終的に誰も参拝しなくなったようです。

 このような状態になった神社は眷属の質も低下してしまいます。中には野狐にまで落ちぶれるものが出てくることもあります(これはその神社のご祭神であるお稲荷さんの神格によります)。

 願掛けを叶えてほしい時は足繁く参拝してチヤホヤし、願いが叶うと、もしくは参拝に飽きると、さらには願ったような大金持ちにしてもらえないからと、「もういいや」と捨てた人間側の自分勝手な振る舞いの結果です。

 今回の稲荷山参拝で信仰というものを一から考えさせられました。信仰は一代限りという部分も影響しているようにも思います。

 難しいなぁ、としみじみ思いました。そのような勉強をさせてもらえた今回の参拝は、私にとって特別にありがたいものとなったのでした。

※注9…注4に同じ。所在地は埼玉県秩父市三峰298-1。「御眷属拝借」という制度があり、ご眷属が一年間守りにきてくれる

前編はこちら