
人生の節目でいつも運が味方してくれた
自分で言うのもなんですが、私は運のいい人間です。人生の節目となる重要な場面で、ことごとく運が味方について、ラッキーな結果が転がりこんできました。
幼少時の私は、雨が降るのを部屋の窓から、じっと眺めるのが好きでした。気持ちが落ち着いたからです。そのうち、落ちてくる雨粒の一つひとつがはっきり見えるようになりました。動体視力が鍛えられたのかもしれません。

それと関係があるかどうかは不明ですが、私は目にした物を写真のように記憶できる「映像記憶」の持ち主になっていました。
ですから、小学校の途中まではまったく勉強しなくても成績トップでした。なにせ、見ただけで教科書を覚えられるのですから。しかし、5年生くらいになり、親や先生の言葉に従って勉強し始めたら、とたんに成績が落ちました。興味がない内容を文字で読んで覚えようとしたからでしょう。
中学になると、まったく勉強しなくなり、成績は下から何番の落ちこぼれでした。ところが数々の幸運により、岡山の名門・朝日高校、東北大学天文学科、京都大学大学院へと進み、さらには名古屋大学大学院へ編入。博士課程修了後には、スイスのジュネーブ大学に助手として採用されます。
詳細は、下記のとおりですが、いずれも「絶対に無理」なはずの進路が開けたものです。
保江邦夫先生の幸運の履歴
●岡山県の名門・県立朝日高校に合格
中学の成績はクラスの底辺。実際に五科目の試験は全然できなかったが、絵画のデッサン試験だけがうまく行き、校長面接での回答が気に入られ、合格。
●東北大学理学部へ進学
学生紛争の余波で試験時間が本来の1教科120分から30分に短縮になり、問題数も3問程度に縮小。たまたま映像記憶で覚えていた問題ばかり出題され、合格。
●定員5名の天文学科へ
全学ストで後期の講義がほとんど行われず、期末試験に名前さえ書けば進級できた。学生の3割しか試験を受けず、しかも天文学科希望者がなぜかピッタリ5名だったため、入れた。
●京都大学大学院へ進学
筆記試験はまったくできなかったが、1問だけ本で読んだ記憶があった。面接で「あの問題は○○先生の本のこのページにありましたね」と言い、解けなかった理由として「教科書どおりに解いてもおもしろくない」と言い、さらに「○○先生の教室に入りたい」と言ったら、好意的に受け取られ、入れてくれた。
●名古屋大学大学院へ編入
大学院で拾ってくれた先生と大げんかし、京大では干された状態に。高林武彦教授に師事したいと名古屋大編入を志すが、編入試験は1名しか合格できない超難関。このときは筆記試験ができたうえ、皆から恐れられていた切れ者先生の質問に的確に回答したので、皆の心象がよくなり、編入を認められた。
●ジュネーブ大学の助手になる
博士課程修了後に海外に行きたいと高名な学者に手紙を書きまくっていたら、理論物理学のメッカ、ジュネーブ大学から「この9月から来るなら採用する」と返事が届く。実はもともと予定されていた優秀な研究者が急遽この席を蹴り、「人件費の予算を計上済みだから、誰でもいいから採用しろ」というところに、保江先生の手紙が届いたのだった。まだ博士号を持っていなかったが、「ジュネーブ大学に弟子を送れるなら」と教授たちが一丸となって協力してくれ、9月に間に合った。
必要な状況になるとなぜかお金が入ってくる

私が学者として認められる契機となった研究も、ある意味、幸運により天からもたらされました。
ドイツのアウトバーン(制限速度のない高速道路)を時速200キロ近くで走っていたとき、車の騒音や振動がフッとかき消え、静寂に包まれた瞬間がありました。
そのとたん、頭の中に画像が現れ、ある数式が見えたのです。それが何なのか、最初はわからなかったのですが、後でいろいろ計算してみて、すごい方程式だと気づきます。後に「ヤスエ方程式」と言われるようになるものですが、学者として一生に一度できるかどうかという画期的な発見でした。
経済面に関しても、私は決してお金持ちとは言えませんが、必要な状況になると、なぜか必要なだけのお金が入ってきます。
自分でも、なぜこんなに運がいいのか不思議でしたが、あるとき、ようやく理由がわかりました。私は子どものころから無意識に「運をよくする方法」を実践していたのです。特殊なことではなく、皆さんもすぐ実践できる方法です。
その方法については、次回にお話しします。