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【地無し尺八とは】聴くと心に無限の宇宙を感じる!心の病をも癒やす音色

ありのままの自然に美を見出すのが本質

私は十代の頃にモダンジャズに傾倒し、プロのトランペッターとして活動していました。

ただ、そうした中で、どこか西洋の音楽への違和感を感じる部分もありました。象徴的な存在が「ピアノ」です。ピアノは1オクターブを12音に分けた鍵盤楽器ですが、鍵盤と鍵盤の間にも〝音〟はあります。

ピアノに代表される西洋楽器や音楽は、自然科学に基づいて音を一定の法則で捉え、表現します。厳しい自然環境の中、人間の知恵(科学)でそれを克服し、発展してきた西洋ならではのすばらしい芸術です。しかし、ピアノの「鍵盤と鍵盤の間の音」のように、切り捨てられてしまう要素もあるわけです。

一方、日本人が古来親しんできたのは、ありのままの自然を尊ぶ「花鳥風月」の世界観です。人間が我を通すのではなく、自然と同化することによって、そこに「美」を見出してきました。

どちらが優れているというのではありませんが、両者は全く違う発想に基づいていると言えるでしょう。

私は、1966年に発表された武満徹作曲の『エクリプス』(琵琶と尺八の二重奏曲)という曲を聴き、尺八のなんともいえぬ心地よい音色に魅了されました。この曲で尺八を演奏した横山勝也師に師事したご縁で、さらに海童道祖師(※)と出会い、現代には廃れていた「地無し尺八」の無限の可能性に魅了されます。それはまさに、私が求めていた音だったのです。その後、古典本曲(後述)の生き字引とまでいわれていた岡本竹外師にも師事しました。

※その当時は海童道宗祖と名のり、その後に海童道祖と改名

そして地無し尺八の普及のために「禅茶房」を設立し、現在にいたります。青山雅明さんも私が指導した弟子の一人です。私から見ても、青山さんはこの数年でめきめきと上達されました。聞けば「地無し尺八の世界が絶えないように広めていきたい」と意気込んでいるそうです。若い世代の人がそう思ってくれるのは頼もしく、うれしいことです。

奥田敦也さんが作譜した「虚空」。奥田さんは、これ以外にもたくさんの尺八古典本曲を作譜している

『ゆほびか』2022年8月号の付録CDで、青山さんが演奏しているのは、いずれも江戸時代に虚無僧が吹いた地無し尺八の独奏曲で「古典本曲」と呼ばれています。これに対して、明治時代以降、加工により音の出方を整えた「地有り尺八」が登場し、三味線や箏との合奏が盛んになります。こうした合奏曲は「外曲」と呼びます。

楽器として扱いやすい地有り尺八はすばらしい発明です。ただ、先ほどのピアノの話にも通じて、竹を人間に合わせて加工することは、本来の尺八の成り立ちと真逆の発想であるようにも感じます。

地無し尺八は、そもそも虚無僧が自らの修行のために吹いていたもので、人に聞かせることを目的にした楽器ではありません。どこからともなく聞こえてくるような、小さな音量しか出ません。けれど、この小さな音の音色こそが、本当に豊かなのです。音量を大きくすると音の〝色〟は、はかなくも消えてしまいます。その色にこそ、尺八の本質があると私は思います。

『ゆほびか』2022年8月号付録の虚無僧尺八「倍音ヒーリングCD」

音を聞くうちに頭のモヤモヤが晴れた

古典本曲には「虚」という字が付くものが多いのですが、これは「何もない」という意味ではなく、「無限に広がる」という意味を表しています。仏教の言葉でいう「内観」、すなわち、自分の心の中に無限の宇宙が広がっている――それを感じることだと私は考えています。

その「内なる無限」を感じる方法として、尺八があるのです。

昔、こんなこともありました。

とある茶道の家元が、精神的なストレスや重圧の影響もあったのでしょうか、心の病気になり、精神科やカウンセラーに頼るも、いっこうによくならなかったそうです。縁あって私がそちらのお宅を訪れ、地無し尺八を吹いたところ、「頭のモヤモヤが全部晴れた!」と言い、その後すっかり元気になられました。

これは私の力ではありません。「竹」の力です。竹の音を通じて自然と調和し、心の落ち着きを取り戻されたのではないかと思います。

近年、海外から日本に尺八を習いに来る人も増えました。西洋的、合理的な価値観と異なる尺八による「内観」の世界が、今求められているのかもしれません。ぜひ皆さんも、その世界を体験してみてください。

この記事は『ゆほびか』2022年8月号に掲載されています。